
| 会社名 | Govardan-hill.com |
|---|---|
| 代表取締役社長 | 筆宝 大平 |
| 所在地 | 〒203-0023 東京都東久留米市南沢2-12-4 |
| 最寄駅 | 西武池袋線『ひばりヶ丘』駅 |
| TEL | 090-3478-8097 ※ご用件は、e-mailにてお願いします。 |
| d-hippo@govardan-hill.com | |
| URL | http://govardan-hill.com/ |
| 事業内容 | FX投資教材販売、FXソフト開発 |
| 主要取引銀行 | りそな銀行、イーバンク銀行 |
私は、札幌市の北大病院に生まれました。両親が、「雄大な石狩平野」の意味を込めて「大平」と名付けたそうです。
3歳までの幼少期を石狩平野の月寒牧場で送り、その後上京しました。
母に聞いたところでは、幼少期の私は何よりも数字が好きだったようです。よく母に、「ぼくに時間を聞いて」と頼み、母が「今何時?」と聞くと、「○時○分」と得意げに答えていたそうです。私自身、よく覚えていないのですが^^;。
それから私に電話帳を一冊渡しておくといつまでもページをめくって数字を追っていたそうです。
なんでかは私もよく分かりませんが、とにかく数字が好きだったみたいです。
そういえば、幼稚園の卒業時の作文で「将来の夢は算数の博士になることです」と書いていたことは、今でも覚えています。
父のパリ留学にともない、フランスの現地校に転校し、アルジェリアやポルトガル移民の子とともに学びました。
パリの街をひとりで歩くのが好きで、迷子になったこともありました^^;。その夏は北欧や地中海を旅行。
翌年パリ市15区のフェリクス・フォーレ小学校に転入し、3月に帰国しました。
フランスから帰国後、6年生の春から中学受験の勉強を始めました。当時兄が通っていた麻布中学を
志望していましたが、海外での生活は予想以上にハンディとなっていたようで、4月に受けた塾で最初の模試では
177人中170番という成績でした。「合格可能性20%未満、志望校変更が望ましい」という判定です。
けど、なんでか塾の先生は、「君みたいなタイプの子は受かるよ」といってくれました。どこを見てそう言われたのかは
よく分からないのですが、要は、教えられたことをただ覚えるのではなく、自分で考えるタイプの子だ、
という趣旨であったようにも記憶しています。それで、1年後本当に麻布に受かりました。
今でもあの塾の先生の目はすごかったなと思います。
麻布中学に入ってからは、学校の勉強などまったくおかまいなしで自分の好きなことだけを勉強していました。
勉強というか、趣味ですね。ふつうは趣味にしないと思いますが数学が好きで中2で高3までの数学を独学で
勉強しました。けど暗記が苦手で社会とかは赤点ばっかりでしたね。それもおかまいなしで、好きな三国志とか
よく読んでました。ものすごくボリュームがあるのですが、歴史の教科書では、三国志の記述はたった3行で
終わってるんですね。だからそんなところを一生懸命読んでも試験の点数にはまったく結びつかないんです(笑)。
逆にそこがでたら、余裕で満点でしたけど。まあ、一言でいうと子供のころから「わが道を行く」感じの、
先生からみたら扱いいくい生意気な生徒だったのではないかと思います。何か分からないことがあっても自力で
解決することに執着し、自分の好きなことだけを追求する姿勢はこの時期に身に着いたのではないかと思います。
先生から見たら生意気なんですが、受験などの一発勝負ではこういうタイプの方が強いみたいです(笑)。
自己流の生き方というのは、いい面もあれば悪い面もあり、うまくいっているときはいいんですが、
行き詰まるとやっかいです。自己流というのは言い方を変えるとすべてを自分で背負うことですので、
その重みにつぶされそうになることもしばしばありました。教育のあり方や、社会での生き方など、人生に煩悶し、
学業を放棄して哲学や宗教(当時は仏教など)に傾倒した時期もありました。
そんな中、高校2年の夏に、湘南の海である女の子と出会いました。その子との出会いは少なからず僕の堅く閉ざした
心に風穴をあけてくれたように思います。その子は、ぼくがそれまで生きてきた殺伐とした世界で経験した
ことのない、無邪気な明るさと温かさをもっていました。その夏、ぼくはその子との出会いを小説に書きました。
当時女の子の友達に見せたら、みんなすごくよかったと言ってくれました。けど、その小説のことは大切に、
心の中にしまっておきたいと思います。今でも、その子には感謝しています。
受験には強いので、大学は東大と思っていましたが、実際東大に合格しました。東大に入って初めて気づくのは、
やはりここは自己流の人々がくるところなんだなと(笑)。自分でなんでもできてしまうという面もありますが、
プライドが高いという面もあります。ただ自分もその中にいるので正直なかなか自分を客観視するのが難しいです。
入学式の日に、東大の総長先生が祝辞で、「諸君は東大に入ったわけですが、これからは意識的に東大以外の
人達と交流して視野を広げるよう努めてください」という趣旨のことをおっしゃっていたのをよく覚えています。
およそ先生と名のつく人の言葉に耳を傾けたことのない私でしたが、このメッセージは、深くうなづけるものがありました。
それからは、実際に本当にいろんな世界に出かけていって、いろんな人たちと交流しました。そのすべてをここに書くと
ページ数が足りませんので、折を見て大学時代の世界旅行記などをアップしていきたいと思います。
その後大学院に進んだのですが、その時期アルバイトで女子校の講師をしていました。
よく男友達に「うらやましいな」と言われることがあるのですが、実際にはそんなことはないです。
ないですというより、あったとしても、それ以上に重圧のかかる仕事です。それは正直やってみなければ
わからない点もあると思いますが。たとえていうなら、一度に何十人の異性と結婚したかのような重圧です(笑)。
(うまい例えが思いつかなくてすみません)。それがたかが数学を教えるだけのことであっても、
何十人の人生を背負うような気持ちをもっていないと、つとまらないと思います。人間というものの重みをこの時期ほど
感じたことは正直なかったです。たんに「あの子かわいいな」というのとは全く別次元のお話です。
(ただそんな中でも、日々ぶつかりあったり、仲直りしたりを繰り返して、通じるものはそれなりにあると思いますし、
そういった絆は表面的なものではないので、より深い交流が可能になると思います。
その点も、いいところばかり相手に見せようとする表面的な恋愛関係とはかなり違うと思います。
どちらかというと、精神的な面のみをとらえると、結婚した後の男女関係に似ている気がしました。
これもまた変な例えで恐縮ですが。そのような関係を一度に何十人も経験するとなったら、それはもう、大変です(苦笑)。
奥さんはやはり、ひとりが一番いいと思います(笑)。 最近昔の教え子から、結婚式に招待されて祝辞を頼まれる
ことがありました。卒業して6年近くたっているのですが。そんなことがあると、先生やっててよかったなと思います。
女子校で教えていた時期、父が脳出血で突然倒れました。命に別状はなかったのですが、後遺症で半身麻痺になり、
当時父母と3人で暮らしていた私は、突然のことで目の前が真っ暗になりました。当時、主な収入源は父だったので、
私は父の仕事をしながら大学院の研究と女子校の仕事をこなしていましたが、案の定、半年で体力の限界がきました。
親の介護以前に自分が壊れると思いました。なので、大学院の研究も女子校の仕事もやめて、
当面父の仕事と介護のみを行うことにしました。正直それだけでも大変でしたが。なんとか、父は家の中のことは
自立できるようになりました。 ただそんな状況では、私が就職することはできなかったのと、やりかけの研究が
心残りだったので、改めて大学院博士課程に戻り、その後3年で博士学位を取得しました。
なんで研究が好きだったかというと、おそらく世界でだれもやったことがないことを自分でやるからだと思います。
またこの博士課程研究員時代に、たくさんの仲間と知り合うことができました。中でも学生主体の研究発表
ポスターコンテストを開催するイベントの企画・幹事をしていたときの仲間は、今でも結婚式などで必ず
同じテーブルを囲んでいます。
学位取得後、直接仕事とは関係ないのですが、ホームヘルパー2級の資格を取得しました。
父の介護のための勉強という面もありますが、母もいままでの苦労が重なったためか、少し物忘れが始まってきました。
なので、将来のことを考えて、介護に関して正しい知識を身につけておこうと思い、資格を取得しようと思いました。
そのときに実際の施設で実習とかも行ったのですが、重度の利用者さんを集めたような施設では、
ものすごい管理が厳重なのに驚きました。ドアを開けると警報機がなったり、エレベーターにキーがかかっていて
自分では移動できなかったりします。もちろん安全管理に必要な措置であるとは思いますが、利用者のみなさん
の中には、閉じ込められている、という意識を強くもっている方が多かったのが印象的でした。家族からのけものに
されて、ここに閉じ込めらている、という意識です。実習中に利用者さんとコミュニケーションをとる場面が何度か
あったので、そのことに気付いたのですが、予想外のことで思わず話しこんでしまったりもしました。
実際、話してみると要領を得ないところもあるのですが、しっかりと会話もできますし、感情も豊かであると感じました。
ただ一見すると、確かに少しボケているようには見えます。みなさん「家に帰りたい」としきりに言ってましたが、
私にはどうすることもできず、またご家庭の事情もおありでしょうから、私が何かできるわけでもないのですが、
そうなる前になんとかできなかったのか、私自身深く考えさせられる経験でした。
当時研究員の給料は決して多くはなかったので、今後の生計を立てるために、新たな収入源を確保する必要があり、
そんな中でFX投資を始めました。もともと数字やマネーが好きだったということもありますが、最初のころは
ビギナーズラックで結構勝ってました。ただ投資はそんなにあまいものではなく、そのうち負けがこんでくるようになり、
いろいろな手法やソフトを試してみるようになったのですが、目に見えて成果の出るものは何もなかったと思います。
基本的に、最小通貨単位のみで取引していたので、たくさん実験したのですが、数千回取引して数十万円は
損失を出していたと思います。それからは、いったん投資から身を引いて、お金をかけずに空いた時間を使って
FX攻略法の研究に明け暮れました。もともとプログラミングとかも得意だったので、自分でロジックを組んで
たくさんのプログラムを作成して検証したのですが、結局どれもうまくいきませんでした。何がうまくいかないのか
というと、端的にいって、過去と未来は違うということで、過去にうまくいっても、未来でも同様にうまくいく保証はない、
という当たり前のことでした。未来を予測できないのは当たり前なんですが、チャートだけを見ていると、
それが当たり前でないように錯覚してしまうのがチャートの怖いところだと思いました。ですので、その後はごく簡単な
最小限のロジックで相場の大きなトレンドのみを把握し、原則としてチャートを見ない手法を編み出しました。
そして実践したところ、わずか1週間で50万円の元手を320万に増やすことができ、それまでの損失も吹き飛ばして
精神的に一気に楽になりました。ただこの手法は、ある程度私の裁量に基づいたものなので、この手法を固定ルールに
落とし込むことはできないかと考え、さらに厳格なリスク管理のルールも含めたローリスク・ローリターンの手法を
開発するに至りました。それが、現在各ASPで販売させていただいておりますFXソフト「たのしいFX-リアルタイム
FX投資戦略ソフト-」です。
当初は、自分のために作成したソフトだったのですが、身近な人たちに試しに使ってもらったところ、
みなさん「おもしろい!」といってくれたので、「たのしいFX」と命名させていただきました。裁量トレード支援ソフト
ですので、成果に個人差はあるのですが、たのしんでお金を増やせたら、みんながハッピーになれるのではないかと
思い、情報教材として販売させていただくことにしました。 おかげさまで、発売当初から月平均80本くらい売れて
3カ月合計で250本販売することができました。それ自体ももちろん、収入源ではあるのですが、みなさんの大切なお金を
預かっているという気持ちで、このソフトをよりよく使っていただけるようなサポートしシステムの開発に
現在取り組んでおります。
FXだけで劇的にお金を増やすことも可能と思いますが、それ自体に当然リスクはありますし、増やしたら増やしたで、
累進課税で多額の税金を支払うリスクもあります。ですので、現在は個人で1000万円を超えるような取引は
基本的にしないように心がけています。ただ法人を設立することで、FXの収入についても税制面で有利に扱えるので、
現在はその方向についても検討しています。 ただ、私自身の最終目的はお金ではなく、メディカル・ファンドのような
ものを設立できればと考えております。これは、現段階では夢物語なのですが、今まで身の回りでいろんな病気を
患っている方とかかわり、自らも長年にわたる介護の経験から、家族の負担の重さはよく分かっているつもりです。
現在難病とされて見捨てられてしまうような病名を宣告されて「現在の医学では治りません」と言われることの
やるせなさも、これまで何度も経験してきました。できないかもしれないけど、できるかもしれない、その可能性に
挑戦するのが、科学者の使命だと思います。ですので、もし大きな資金を手にしてメディカル・ファンドのようなものを
設立できたら、そのようなチャレンジングな研究を積極的に助成していけたらと考えております。